プロフィール

こんにちわ!はじめまして

C-GAME(シーゲーム)の管理人、みっつ(@CGAME)です!

このサイトに来ていただいてありがとうございます。

ここでは

  • 私の自己紹介
  • 今どんな仕事をしているか
  • ゲーム会社に入社するまで
  • このブログで発信したいこと

以上について書いていきます。

自己紹介【みっつと申します】

簡単なプロフィール

  • 名前:みっつ
  • 生年月日:1991年9月生まれ
  • 出身:沖縄県宮古島
  • 住まい:東京都在住
  • 仕事:都内のゲーム会社勤務

こんな感じの者です。

現在の仕事【CGデザイナー】

東京都内のゲーム会社で、CGデザイナーとして勤務してます。

■職歴

  • 1社目・・・大阪の某大手ゲーム会社(コンシューマー)
  • 2社目・・・東京の開発会社(モバイル)
  • 3社目・・・東京の開発会社(コンシューマー)
  • 4社目・・・東京の自社開発を行ってるベンチャー企業(PC/モバイル)

昔は大阪でコンシューマーのアクションゲームに携わり、次は東京都内でモバイル系の開発、東京の別の会社でコンシューマー開発を経て、現在は創業数年のベンチャー企業でPCゲームの開発をしてます。

私のデモリールは↓です。

沖縄県の離島に生まれる

わたしは沖縄県の宮古島出身の者です。

宮古島は沖縄県の本島からおよそ300kmほど南に離れた島で、周囲約100km、人口約5万人の小さな島です。

8月の平均気温は28度で東京や大阪と言った本土の夏よりすごしやすく、ここ2~3年で観光客の数が100万人を超えたと話題になっていました。

宮古島の海は泳いでいても下の浜辺が見えるくらいの透明度があります。

そんなキレイな海だから8月のオンシーズンにはダイビング、シュノーケリングと言った海の遊びが盛んです。

キレイな海が代表的な宮古島で、わたしは18年間すごしました。

夢はゲーム開発

そんな宮古島で18年間すごした私は幼い時から、抱いていた夢がありました。

その夢とは”ゲームをつくる事”です。

ゲーム開発を目指した理由

わたしがゲーム開発を目指した理由はとてもシンプル。

■理由

ゲームが好きだから

きっかけはゲームを買ってもらった事

ゲーム開発を目指すきっかけは、わたしの7歳の誕生日に”ニンテンドー64”を買ってもらった事です。

一緒についてきたソフトは”ポケモンスタジアム”でした。

その”ニンテンドー64”をうけとった私は、箱を開いて、中身を見て、

「なんだこの黒い四角の形は?」

「この灰色のやつはどう持つの??」

みたいな感じでした。

(本体とコントローラーの事なんですけどね)

そしてTVの配線作業を父親にしてもらい、黒い本体へ”ポケモンスタジアム”のカートリッジを差し込み、電源を入れた瞬間…

「64!!!」

元気のいい声がTVから響いてきました。

そしてコントローラーで対戦モードを選び、ポケモンを選び、技を選びCPUとバトルしていく。

「これがゲームか…」

「めちゃくちゃおもしれー!!!」

と言うふうに感動し、私のゲーム人生が始まりました。

ゲームをやりまくる日々

それからと言うもの毎日毎日、ゲームをやりまくる日々でした。

学校から帰ってきたらゲーム、休日に目が覚めてゲーム、ゲームゲームゲーム…

とにかくゲーム漬けでしたね。

時には親にゲームを取り上げられ、隠される事もしばしばありました。

「勉強しなさい」

「宿題しなさい」

こんなふうに口うるさく言われれ事にありました。

でもゲームを止める事はなかったです。

だってゲームって、楽しいじゃないですか(笑)

こんな楽しいもの、やめれって言う方がムリですよね?

そう思いませんか?

まぁそんな感じで当時はいろいろなゲームをやってました。

エンドロールに名前を載せたい

そんな感じで7歳からゲームをやっていた私は、12歳になりました。

12歳の頃やっていたゲームはGBA(ゲームボーイアドバンス)の”ロックマンゼロ”と言うゲームでした。

横スクロールアクションのゲームで、敵をバッサバッサと倒しながら進める、爽快感あふれるゲームです。

夏休みも終わりを迎えようとしている、8月の終盤の日に扇風機をかけながら、横になり”ロックマンゼロ”をプレイしていました。

ボスを倒し終え、クリア後に流れるエンドロールを見ながら、私はふと思いました。

このエンドロールに名前のせたいな~

と…

この時は、ただ何となく名前のせたいな~くらいに思っていました。

その一か月後くらいにプレイした”三國無双”をクリアし、エンドロールを見ている時に

”CGデザイナー”

と言う職種が目に入ってきて、直観的に

「コレだッ!!」

って思いました。

そこから、なんとなく

「CGデザイナーとして、ゲーム開発にかかわりたいな~」

と思うようになりました。

かと言って特に何かを始めたってことは無く、相変わらずゲームだけやってました(笑)

専門学校は高いと言う事実【学費だけで600万円以上】

そんな私も18歳をむかえ、高校卒業をひかえていました。

進学先はCGを学べる専門学校に行くつもりでしたが、行く事は出来ませんでした。

専門学校に行けなかった理由はシンプルに、

学費がめっちゃ高いからです。

学費を調べたら

「え!?そんなにかかるの?」

って感じでした。

私が行きたい学校は

  • 大阪
  • 年間150万
  • しかも4年間

つまり、

学費だけで600万、そこから大阪での生活費…

「うわっ!たっけ~」

「えっ、でも貯金してあるんだよね?」

って思っていたんですが、

貯金なんてものは一銭も無かったんですねぇ…

貯金して進学を決意

「あーマジかぁ、お金ないのかぁ…」

「じゃぁ…」

「貯金して、学校行くか!」

そう決意しました。

サラリーマン時代-2010.4~2014.3-

2010年の3月に高校を卒業した私は、18年間すごした宮古島を離れて東京で働く事にしました。

貯金→300万円貯金

2010年4月から東京で働き始め、

2010年10月~2012年10月の2年間で300万円貯金しました。


当時はこんな感じで年間の目標金額を決め、達成できたら丸をつけてました

こうやって進捗とゴールを明確にしながら毎月、貯金していました。

通帳を見るたびに

「お、今月も貯まってるな~」

ってニヤニヤしながら将来設計してました。

保線作業員として働く

上京してきた私は『保線作業員』として現場でドカタ仕事をしてました。

いわゆる『ガテン系』ってやつですね笑

この保線作業員って仕事、まぁぶっ壊れてるんですよね~

↓が当時のタイムスケジュールです。

一日のスケジュール

  • 昼・夜二交代制で勤務
  • 昼…8時~17時
  • 夜…22時くらい~4時くらい(作業内容による)

「ん?どんなスケジュール?」

「いつ寝てるの?」

もしかしてそう思っていませんか?

まぁその通りなんですけどね(笑)

1日の細かい流れ

  • 昼間は8~17時で仕事
  • そこから風呂に入って、ごはん
  • 19時くらいに寝る
  • 22時くらいに起きて夜勤の現場に行く
  • 4時とか(場合によっては6時とか…)に帰ってくる
  • また8時に仕事スタート
  • これを1週間繰り返す

はい、完全に壊れてますよね(笑)

「ふつう、夜勤あったら翌日って休みじゃないの?」

って考えますよね。

でも保線作業員は違います。

線路の整備が仕事なんで、昼間の電車が走っている時間では出来ない作業があります。

(例.レールを取り替える作業とか)

だから終電後じゃないと出来ない作業があるんです…

夜間作業の様子です。

こう言った感じで夜間作業には専用の重機が入ったりします。

ちなみにこの重機は”バラストクリーナー”って言います。

仕事はキツくても慣れます

最初のうちはかなりキツかったです…

夜間作業が長引いて5時とかに帰ってきたら2時間くらいしか寝れないので、翌日の午前中とかは頭がボーっとしてました。

でも人間ってコワいもので、慣れるんですよね…

慣れたら意外と平気なんですよ(笑)

もちろん働いた分は給料に反映されますから、手取りはかなりもらっていました。

そんな環境だったので、丸2年ほどで300万円を貯める事が出来ました

ヘルニア発症

貯金が300万に到達したと同じ時期の2012年10月頃に持病のヘルニアが再発。

完全に動けなくなっていました。

つい間板ヘルニアによる坐骨神経痛

じつは私、17歳の時にヘルニアをわずらいまして、、、

「あ、あるけなねぇ…」っていた時期があります。

この時、医者には『つい間板(ついかんばん)ヘルニアによる坐骨神経痛』と診断されました。

つい間板とは背骨の骨の事です。

背骨は色んな神経が集まってて、『ヘルニア』と言う異物がその神経を圧迫する事で痛みが発症します。

ヘルニアの痛み

そのヘルニアが数年の月日を経て、再び私に襲い掛かかってきました。

ヘルニアの治療法は大きく分けて2つあります。

  1. ブロック注射で痛みを和らげる
  2. 手術でヘルニアを摘出する

17歳の時に発症したヘルニアは『ブロック注射』で治療できました。

なので

「今回もブロック注射で大丈夫なはずだ」

そう思っていました。

しかし今回のヘルニアはかなり頑固で、ブロック注射を何度うっても痛みが引くことはありませんでした。

ヘルニアによる坐骨神経痛は足の神経を圧迫し、特に左足のもも付近の痛みが強く、とても歩けるものではありませんでした。

ヘルニアの痛みは本当にツラく、横になっていても痛い、立っていても痛い、もう何をやっていても痛いんです…

自分で靴下も履けないくらいの痛みで、歩くたびに涙を流していました。

毎朝、目が覚めると

「今日こそは痛みが引いていますように」と願いながら起きていました。

しかし、痛みが引くことは、ありませんでした。…

そしてまた、あの左足のももを引き裂くような痛みが襲ってくる…

「あぁ、今日もまだ痛いんだな…」

「いったい何時になったらこの痛みは引くんだろうか」

朝起きるのが、本当に憂うつでした。

そうやってブロック注射を打つ治療が2か月ほど続き、私は決心しました。

このままズルズルと治療していてはダメだ」

「いったん宮古島に帰って本格的に治療しよう」

そう思い、11月頃に宮古島へ帰りました。

いったん宮古島に帰り手術を決意

東京に比べるとずいぶん暖かい宮古島は、11月なのに気温は20度を超えていました。

宮古島に帰ってきた私は、高校時代に通っていた病院に行き診察してもらいました。

そこでこれまでの東京で治療の経緯を医師に話し、今後の方針を相談しました。

すると医師は「手術した方が良い」と結論をだしました。

手術…

わたし自身、覚悟はしていましたが、いざ言われると考えるものがありました。

「手術なんてして、大丈夫かよ」

「もし失敗とかしたら…」

何とも言えない不安が襲ってきました。

しかし、

「こんなところで止まっているヒマは無い」

「必ず治して、はい上がってやる!!」

不安よりも負けん気の方が勝っていました。

手術を決意した私は、その場で手術の日程を決めました。

宮古島では手術できる先生がいないので、沖縄本島の病院で手術する事にし、手術日は12月中旬に決まりました。

沖縄本島での手術

手術する3日ほど前に、沖縄本島の病院に入院し、病室のベットの上で運命の手術日を待っていました。

手術日の前日に手術をする医師や、麻酔科の医師が説明に現れ、色んな事を話していました。

「あぁ、いよいよ手術か」

「こんな痛みから、早く解放してくれ」

痛む左足をさすりながら、そう言う思いで胸がいっぱいでした。

そしていよいよ手術当日…

ベットに乗せられ、手術室に運ばれた私は4人の医師たちが待つ手術台に乗せられました。

「い、いよいよ始まる…」

顔が引きつり、目が泳ぎ、明らかに落ち着きがありませんでした。

そんな緊張している私に、近くにいたナースさんが優しく微笑んでくれたのを覚えています。

「あぁ、白衣の天使ってのはホントにいるんだな」

すると不思議な事に心が落ち着きました。

そして呼吸器のようなものをくわえ、口から麻酔を入れられた私は

深い眠りにつきました。

ヘルニア手術を終えて

麻酔が切れ、目を覚ました私が最初に見たのは

『投球練習をする麻酔科のお兄さん』でした。

その姿はさながら、ダルビッシュ有のようだった、とでも言うべきか…

「なにやってんだ?この人…」

まだ完全に起きていない意識の中で、そう思った事を覚えています。

とりあえず、手術は無事に終わったとの事でした。

手術を担当した先生への感謝の気持ちと、投球練習していた麻酔科のお兄さんへの謎を残しつつ、手術室から自分の病室のベットに運ばれて行きました。

手術後は1週間の入院が必要との事だったので12月中旬から1週間の入院。

クリスマスを病院ですごしたのはいい思い出です(笑)

リハビリを経て仕事復帰

沖縄本島での手術を終えた私は、宮古島でのリハビリ生活が始まりました。

ヘルニアは体の中心部、いわゆる『体幹』の弱さから痛みが発症するとの事です。

だからリハビリは、この体幹を鍛える事がメインでした。

最初は

「リハビリ面倒だなぁ~」

と思っていましたが、

「リハビリをやらなかったら、あの痛みが再発するのか…」

そう考えるだけで、自然と体が動きました。

あの足を引き裂くような痛みは、もう二度とゴメンですからね…

そうしてリハビリを続け2013年2月の中旬に仕事復帰する事が出来ました。

仕事復帰するも退職を決意

宮古島と違って東京の2月はかなり寒い…

そう感じながら東京の職場に戻ってきました。

久しぶりの現場でしたが、職場の仲間も暖かく迎えてくれて

「さぁ貯金の再開だ!」

と思っていたのですが、ヘルニアのトラウマからなのか、体が満足に動いて無い事に気づきました。

どうしても力を出すのをセーブしている、と感じました。

体は回復して、大丈夫と分かっているのに、全力を出せていない…

そのとき

「もうこの仕事を続けるのは無理なんだな」

そう思いました。

思えば確かに苛酷な労働環境だったと思います。

昼夜の連勤、仕事道具は重い物ばかり…

若さにブーストをかけて、無理をし過ぎていたんだと思いました。

そして、会社を辞める旨を上司に伝え、2013年4月いっぱいで会社を辞めました

本当はもっと貯金したかったんですが、断念…

足りない分の学費は、奨学金で補てんする事にしました。

フリーター期→関西移住

進学予定の学校は大阪だったので、この年の2013年5月~2014年4月は関西にいる友人の家に居候する形でお世話になっていました。

この期間はフリーターしつつ、『基本情報技術者』って言うIT系の資格の勉強してました。

 落ちたんですけどね(笑)

午後が難しい…

まぁ、資格取得は出来なかったけど、

IT系の基本的な知識の勉強になりました。

そんな感じで約1年ほど経って

ようやく学生生活が始まるわけです。

ながかった~(泣)

学生時代-2014.4~2018.3-

ここでは

  • 何を学んだか
  • どのようなスキルを身に着けたか
  • どのようにしてゲーム会社に入ったか

を書いていきます。

簡単に言うと

  • CGを学び
  • CGアニメーション周りのスキルを身に着け
  • 作品をつくり
  • 就職活動

こんな感じです。

CGアニメーターを目指す

理由は簡単でアニメーションと言う分野が面白かったからです。

ゲーム=操作する

この感覚が好きだったのでCGでキャラクターを動かすって言う事に面白さを感じる事は自然の流れかなって思います。

基本的にCG業界と言うのは『スペシャリスト』と呼ばれる1つのスキルに特化した人材が求められる傾向にあります。

■理由

CG制作はほとんどが分業制だからです。

ですので、

あれもこれも全部できます!

って言う人より

この分野めっちゃ得意です!

って人が求めらるのかなって思います。

リグにのめり込む

リグってなんだよって感じですよね…

簡単に言うと

キャラクターを動かす仕組みだと思って下さい。

キャラクターを動かす時って、

  1. キャラクターを作る
  2. そのキャラクターにコントローラーを仕込む
  3. ただのキャラクターから動かすことが出来るキャラクターにバージョンアップ

この作業をリグを入れる、リギングと言ったりします。

まぁ、キャラクターを動かす仕組みなんだ、くらいに思ってくれれば問題ないです。

このリグがめっちゃ面白くて、学生時代はリグばっかりやってました。

だから自分の学生時代の作品にアニメーション作品まったく無いんですよね…

リグについてはこちらの「リガーってなに?【CGデザイナー】」の記事で解説してます。

よかったら参考にしてください。

みっつ

2021年の4月頃に転職活動してたので、そのときに使ってたデモリールを載せておきます。

念願のゲーム会社へ

こんな感じで学生時代は、

  1. リグのスキルを身に着ける
  2. 作品をつくる
  3. 就職活動
  4. 今の会社を面接
  5. 入社

って流れで過ごしてました。

CG・ゲーム業界に入るまでの流れは、

作品をつくる→企業に見せる→内定orお断り

みたいな感じです。

まぁとにかく、作品ありきの世界です。

学生諸君は頑張って制作しましょう!!

夢が叶った感想

2018年に某大手ゲーム会社に就職、そして2021年にモンスターをハントする系のゲームに名前を載せることが出来ました。

18歳で高校を卒業してからゲーム会社に入るまで、実に8年。

有名タイトルに名前が載るまで、11年かかりました(笑)

まぁ、長かったようで短かったような?

いや、普通に長いっすね(笑)

同級生、子供いますし…

10年ってのは、それくらいの月日ですよ。

まぁ紆余曲折ありましたが、

  • 東京という都会で働き、
  • 20代前半で300万を貯金し、
  • 東京から大阪に移住し、
  • 4個下の年齢の同級生とCGを勉強し、
  • 一部上場企業のゲーム会社に入社…

って感じで、

夢を追ってなかったら、絶対に味わえなかった体験が出来ました。

ほんと、いい思い出です。

フリーランスへ(2020年1月24日更新)

約1年くらい、沖縄の宮古島で映像制作してました。

宮古島、控えめに言って快適でしたね~。

再び開発現場へ(2020年10月22日更新)

そして再びCGの開発現場に戻ってきました。

CGの発信をする以上、CGの現場にいた方が何かと都合がいいと思いましたね。

経験からの学び

  • ゲーム会社は案外入れる
  • 貯金は意外とできる

以上の2つを主に学びました。

ゲーム会社は案外入れる

ゲーム会社に入ってゲームをつくる!!

って子供の頃に大半の男子は夢見ると思います(違ったらごめんなさい)

でもなぜか多くの人が、夢だの幻想だのって言って、諦めていくんですよね…

私も最初は親にバカにされ、学校の連中にも鼻で笑われ、はいはいムリムリ(笑)みたいな感じでした。

でも、私には出来ない理由が見つかりませんでした。

だって

「同じ人間が作ってるじゃん」

「出来ない理由の方がなくね?」

って思ってました。

貯金も案外出来る

貯金に関しては私がやっていた仕事が特殊、って事もありますが、

同じ仕事をやれば同じようなお金は稼げると思います。

体への負担がキツイので推奨はしませんが…

無いなら作ろう

  • スキルが無い→習得すればいい
  • 学校に行くお金がない→作ればいい

無いなら作りましょう!

行動してみたら意外とできます。

ただ、みんなやらないだけ。

金なし、スキルなし、の沖縄の小僧でさえ出来たんだから、あなたにも出来ると思います。

このブログで伝えたいこと

■ブログで伝えたい事

  • ゲーム・CG系専門学校の紹介
  • CGクリエイターの転職情報
  • その他、エンタメ情報やオピニオン等…

以上の3点を発信していきます。

あなたの専門学校選びを、お手伝いします

1つ目の発信内容は、ゲーム・CG系専門学校の紹介です。

ゲーム系専門学校は、めっちゃ数があります。

その中には、とんでもない地雷学校が混じってるのも事実です。

そんな地雷を踏まないように、現役ゲームクリエイターの私が正しい専門学校選びをお手伝いします。

あなたの貴重な時間とお金を無駄にしないためにも、ぜひこのサイトをご活用ください!

CGクリエイターの転職情報を発信

2つ目の発信内容は、現役のCGクリエイターに向けた転職・独立情報の発信です。

CGクリエイターの転職情報って、あんまり落ちてないんですよね…

どんなエージェントを使えばいいのか、そもそも転職ってどうやって進めたらいいのか…

そんな過去の私みたいな人に向けて、CGクリエイター向けの転職情報を発信していけたらと思います。

あとは適当にマンガやアニメとか、その辺のエンタメ系の情報を発信していけたらと思ってます!!

長くなりましたが最後まで読んで頂き、ありがとうございました!